律法を廃棄するためではなく成就するために来られたイエス様
マタイ5:17には、イエス様の御言葉が次のように記されています。
2017は、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」(2017)と記し、
リビングバイブルは、「誤解してはいけません。わたしは、モーセの律法や預言者の教え(旧約聖書)を無効にするために来たのではありません。かえって、それを完成させ、ことごとく実現させるために来たのです。」と意訳しています。
イエス様が上記のように語られた内容は、幾つかに分けて考えることができます。
1.イエス・キリスト様は、神が意図する律法を守りました。
使徒ペテロは、キリストは罪を犯したことがない、と言っています(1ペテロ2:22)。
2.イエス・キリスト様は、律法を成就しました。
どのように成就したのでしょうか。
それは、私たちの罪を身代わりに負って、十字架上で律法の要求を全うしたのです。
使徒ペテロは、「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」(1ペテロ2:24・2017)と記しています。
罪からくる報酬は死です(ローマ6:23)。
旧約時代、すなわちイエス・キリスト様の贖いがまだ行われなかった時代、その時代には、罪を犯したら、罪の為のささげものをささげれば罪が赦される、と主は教えました。そのささげ物は、イエス・キリストの予表であったのです。
レビ4:27-31には次のように記されています。
“27 民衆の一人が、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がしてはならないと命じたことの一つでも行って、気づかずに罪に陥ってしまったが、後になって責めを覚える場合、28 または、自分が陥っていた罪が知らされた場合には、その人が陥っていた罪のために、ささげ物として傷のない雌やぎ〔雌羊の場合も可です{レビ4:32-35}(筆者挿入)〕を連れて来る。
29 そして、その罪のきよめのささげ物の頭に手を置き〔自分の罪を献げ物の動物に移行させる行為(筆者挿入)〕、全焼のささげ物の場所で罪のきよめのささげ物を屠る〔罪からくる報酬は死です{ローマ6:23}(筆者挿入)〕。
30 祭司はその血を指に付け、それを全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。その血はすべて祭壇の土台に流す〔キリストの血はすべての罪を赦し、きよめる、ことの予表です{ヘブル9:22、10:1-14}(筆者挿入)〕。
31 交わりのいけにえから取り除かれる場合と同様に、その脂肪はすべて取り除く。祭司は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕への芳ばしい香りとして、それを祭壇の上で焼いて煙にする。こうして祭司はその人のために宥めを行う。そして彼は赦される。”(2017)とあります。
コロサイ2:17は、「これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。」(新共同訳)と記しています。
リビングバイブルは、「それらは、キリストが来られる前だけに有効であった、一時的な存在にすぎないからです。つまり、キリストという本体の影でしかなかったのです。」と意訳しています。
3.イエス・キリスト様は、律法を成就し(満たし)ました。
「成就する」と訳されている語のギリシア語原語は、「プレロオー」で、その意味の中には、満たす、の意もあります。
この箇所の「満たす」は、アオリスト自制なので、十字架を指していると思います。
しかし、続く箇所(マタイ5:21以降)を読むと、律法の表面的な行為の奥にある心のあり方における罪を具体的に教えてくださっておられることが分かります。
更に読み進めると、律法の本質とは何であるのかということをイエス様は教えておられます。
マタイ22章には次のように記されています。
“36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
37 イエスは彼に言われた。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38 これが、重要な第一の戒めです。
39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」”(2017)とあります。
イエス様が人の体を纏って地上におられた頃の宗教家たちは、主の御旨から外れた彼ら独自の律法解釈を持っていました(マタイ23章にそれらのいくつかが載っています)。彼らによると、イエス様は罪人でした。
しかし神のひとり子のみ子イエス様から教えをうけた使徒ペテロは、律法の本質とは何であるのかを悟っていたのです。それは、神を愛し、隣人を愛することでした。
使徒ペテロは、イエス様について、「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。」(1ペテロ2:22・2017)と述べているのです。
イエス様を信じた者は、罪を赦され、神のものとして聖別されています。
エペソ1:7には、“わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。”(口語訳)と記され、
ヘブル10:10には、“・・・、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。”(2017)と記されています。
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス・キリスト様が十字架上で流された血によって、私たちは贖われ、罪赦され、聖なるものとして頂けました。
ありがとうございます。
あなたのみ旨に基づき、三一の主なる神様を愛し、隣人を愛して歩む生涯を送ることができますよう整え導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。